Ryuji Goshiki
津軽三味線 五錦竜二
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ヒストリー History
津軽三味線奏者 五錦竜二(本名 沼畑正美)は昭和21年1月2日、北海道大野市(現 北斗市)に五男四女の末っ子として生まれた。
<幼少期>
兄弟はいたものの常に1人でいることが多かった。
北海道の冬は雪が多く、沼畑は小さなかまくらを作り、その中で歌謡曲を歌っていた。
朝6時10分になると、ラジオ放送で津軽民謡、津軽三味線が放送されていた。
まだ幼かったため曲の内容などは理解できない。
しかし、その番組に惹かれ毎朝ラジオ放送を聴いてから起きることが日課となっていた。
それほど民謡が好きな少年だった。
<想い>
学校卒業後、東京都内の会社に勤務。
働きながらも三味線に対する想いは持ち続けていた。
「津軽三味線が好きだ」という気持ちを知った会社専務が「そんなに好きなら、奥様にお願いして、習わせてもらいなさい」と沼畑に言った。
実は、社長夫人が三味線を弾いていたのだ。
沼畑は働きながらいつも社長夫人の三味線を耳にしていた。
そんな矢先、沼畑の父の死がきっかけで、北海道へ戻ることとなる。
北海道に戻っても、唄や三味線に対する気持ちは変わらなかった。
しかし、この時点の沼畑は、唄ったことも三味線に触ったこともなかった。
<冒険>
やがて函館の民謡酒場『福小町』に遊びに行くようになり、そこで太鼓を習い始めた。
次第に津軽三味線をやりたいという気持ちがどんどん強くなり『福小町』にいた佐藤富治(とみじ)氏に相談。
すると「知り合いの工藤君江さんにお願いしてみよう」と言われる。
ついに『七五三』に入社。昭和38年4月のことだった。
<師匠との出会い>
『七五三』に居たのは津軽三味線の名手 福士政勝氏だった。
沼畑の心が騒いだ。
そして津軽三味線の名手 福士政勝氏に師事。
本格的に津軽三味線の修行が始まった。
実際の稽古というのは想像とは異なるものだった。
2年間で習えたのは六段という津軽三味線の合奏のみ。
福士政勝氏の教えは「前弾きも唄付け(伴奏)も太鼓の部分も自分一人で覚えるものだ」。
いわゆる芸は盗んで取るものだ、という方針なのだ。
厳しい世界だということを痛感する。
<修行の旅>
沼畑は芸を知る為、経験する為、名古屋の中村隆志氏率いる『中村民謡団』を訪ねることを決意した。
長島温泉芸能部に所属していた『中村民謡団』メンバーには、二代目 白川軍八郎夫妻・中村優利夫妻・初代 藤田淳一氏がいた。
このメンバーの中で、一緒に舞台を経験することが沼畑にとって凄く勉強となったのだ。
<再び>
東京に戻った沼畑は、師匠 福士政勝氏に帰京を報告。
そこで「津軽じょんから節」を弾いてみろと言われ、沼畑は師匠の前で演奏をした。
すると福士政勝氏の口から出たのは、「ずいぶんと勉強して頑張ったんだなぁ!このまま練習して、練習して、一生懸命続けていくなら俺の二代目をやるぞ。」という予想外の言葉だった。
その発言から数か月後、福士政勝氏は病に倒れ帰らぬ人となった。
<五錦竜二誕生>
師匠の死を受け入れ、二代目という話しがあったものの心機一転。昭和45年、沼畑正美から五錦竜二に改名。
それからは初代 今重造氏・原田栄次郎氏・浅利みき氏などが出演している北海道巡業に出演。
三味線奏者では、初代 佐々木孝氏も出演していた。そこに津軽三味線奏者 五錦竜二として共演。
数々の舞台を経験し、五錦の名を、そして音(ね)を確立させた。
「五錦竜二」「藤田淳一」「澤田勝秋」昭和後期の津軽三味線奏者三羽烏の一人として、現在も全国各地でその音色を響かせている。